九州大学名誉教授 医学博士 藤野武彦先生浅井フーズ通信

人物探検隊

2018年 春・夏

1938年生れ。内科・循環器専門医、医療法人社団ブッ クス 理事長、レオロジー機能食品研究所 代表取締役、 一般社団法人BOOCSサイエンス 代表理事、一般社団 法人プラズマローゲン研究会 臨床研究部代表。九州 大学医学部卒業後、同大学第一内科講師、同大学健 康科学センター教授を経て現職。脳疲労概念とその 具体的治療法であるBOOCS理論を提唱し、肥満や 生活習慣病、うつ状態に対する医学的有用性を実証。 近年、脳疲労と脳内プラズマローゲンの関係に着目 し、認知症に対する有用性を実証。著書には「認知 症はもう不治の病ではない!(ブックマン社)」「BOOCS ダイエット(朝日文庫)」「脳の疲れをとれば、病気は 治る!(PHP 文庫)」他多数。

医師になった意外な理由

ご出身はどちらですか?

生まれたのは福岡県の直方市で、高等学校までそこで育ちました。直方市は石炭黄金時代、遠賀川(おんががわ)周辺で石炭を産生する中核都市のひとつだったんですが、縄文土器も出てくるような古い文化の町が石炭のせいで狂い、私が生まれた当時は遠賀川は魚も棲まないような真っ黒な川になっていました。今は川の水もきれいになりましたが、まさに日本のエネルギー産業の栄枯盛衰を顕著に示す町です。

なぜ医師に?

医者になるつもりは元々はなかったんですけれど、病気をしたからです。高校 1 年の時に肺結核で留年をしたんですね。多感な時代に学年が 1 級下になるわけですから、ある意味では石炭の変革と同じくらい私の個人変革が起こったわけです。父(医師)は、楽な仕事ではないから医者なんかにならない方がいいと言っていたんですが、当時は肺結核の烙印を押されると他の学部に行っても就職できないという非常に厳しい状況にあったんです。それでやむを得ず就職障壁がない医者を志望しました。

療養中はどのように過ごされましたか

結核治療は田舎からわざわざ福岡まで出て九州大学の先生に診てもらったんですが、過剰な診断というか、非常に厳しくて、休学の上に絶対安静で家で寝てなさいと指示されたわけです。後で医者になってからレントゲン写真を見たらそこまでのレベルではなかったんですが。当時、私は父よりも九大の先生の方が偉いと思っていましたので言われたとおりにしました。そうしたら、 3 ヶ月で今考えれば神経症性うつ病という、無実の罪で刑務所に入れられた人が陥るような状態になったんですね。肝心の肺結核の方は 1 年経ってレントゲン写真をとったら、「あ、変わってないから学校に行っていい」と。この時は、この 1 年間は一体何だったのかという思いが強くなり、いささか医者不振に陥りました。

その 1 年間、眠れない、食欲がない、深い孤独感というようなメンタル症状が出たのですが、それを救ってくれたのが2 冊の本です。読書も禁止されていましたが、このままでは死んでしまうと思って、ふと、家の書棚を見たら「眠られぬ夜のために」という、まさに自分の症状にピッタリの本が目に留まったのです。カール・ヒルティというスイスの法学者であり、敬虔なクリスチャンが書いた本ですが、ヒルティの哲学的でストイックな短い文章に救われる思いがしました。面白いのは、もう一冊が「法句経(ほつくきょう)講話」という釈迦の行動記録ですが、そういった意味では聖書に似ている本です。その解説がたまたま九州大学のインド哲学の教授で、この方は重症の肺結核ですぐ亡くなられたのですが、その話は心に沁みるものでした。この 2 冊の本はキリスト教と仏教という全く異なる宗教なのに、私の中では全く矛盾なく、絶望の中の光として受け入れることができました。だからと言って、その後キリスト教会にもお寺にも通う事は全くありませんでしたが、この経験は後年、死に行く人々と対面する事になった時に随分力となりました。その意味では九大病院医師の過剰診断のおかげとも言えます。これがなかったら、ひょっとしたら鼻持ちならぬ嫌な優等生医師になったかもしれませんから。

世界の最先端を行く 九州大学第一内科

どんな医学生でしたか?

父親に「病気しているから九州から出てはいけない」と言われ、やむを得ず九州に留まることにしました。主治医から高校 3 年秋まで受験勉強を禁じられていたので、受験勉強を許されてからはまるで砂に水が沁み込む様に学習がはかどり、楽しかった思いが残っています。九州大学医学部に入学してからは最初の 2 年は教養部で医学以外の学問をやらなければいけないんですが、すごく面白くて本当に勉強しました。それが医学部に進んでからの 4 年間はほとんど授業を受けなくなりました。授業がつまらないから講堂の後ろから出て芝生で寝そべっていたり、読んだ本について夜を徹して議論したりね。非常に幸運な事に九州大学仏教青年会という、医学部と法学部の学生だけを対象とした寮の試験に合格して入れてもらって、そこで運営している無料診療所の手伝いや、夏休みに学生主催で無医村の診療をやったりするボランティア活動をしていましたね。

とにかく医学部の時は学業以外で忙しく、医学の勉強はしていませんでしたし、もともと記憶型ではないので膨大な解剖学なんか最初から覚える努力はしませんでした。しかし、試験に関しては寮の医学部上級生に過去の試験問題を聞いて分析していましたし、一方、どういうわけか同級生から優等生と思われていて、皆が自分のノート持参で私の所に相談に来るので、逆に出席していない講義の情報をもらう事になり、お陰で試験には全く苦労しませんでした。(笑)

内科・循環器病学を専攻されたのはなぜですか?

卒業したら、高校 3 年生の時と同様、未知(いや、無知?)との遭遇で、ものすごく医学が面白く感じるようになりました。もちろん患者さんを診るようになって必要に迫られて勉強せざるを得ないという面は大きかったのですが。それでも患者さんは、人は、興味深い。ところで学生時代一番面白くなかったのは生理学だったんです。でも、皮肉な事に今やっているのは生理学。なぜか。実はインターン(現在は廃止されている制度)終了後、学生時代の講義はとても眠かった内科学(第一)の大学院生になりました。その教授が回診の時に、「藤野君、研究とはフライハイト(ドイツ語で自由)だよ」って言われたのです。それにすごく感銘しました。今でも研究、発見の基盤を鋭く表現する卓見だと思います。そこで 2 年間の臨床研修をやるうちに、第一内科の循環器研究室の先生方がものすごくチャーミング、つまり、研究、発見のための議論は先輩、後輩関係なく自由闊達で、未知の世界を切り拓く夢みる医師が揃っていて本当に気持ちがいい。そこで、教授にお願いして大学院のテーマを急遽、循環器病学へ変更しました。今考えれば、汗顔の至りであり、教授の度量の深さに驚くばかりですが。そうして入ったその循環器研究室の研究手法が何と生理学だったというわけです。そして生理学の実験をやるようになったら、生理学がとても面白い事に気付きました。

第一内科ではどんな研究を?

当初は心筋細胞の電気生理学を、大学院を終えると心エコーの研究をすることになりました。超音波は今は普通の検査法ですけども、当時はまだ装置も開発途上で、我々がやる研究は何をしても世界の最先端という状況だったのです。日本、特に東芝の超音波装置が間もなく世界のトップになったのですが、それにはいささか貢献できたかも知れません。おかげでトップの研究をやったらアメリカに盗まれるという体験を 2 回することができましたよ。幸いその抗争には勝ちましたけどね。

大学紛争も経験されたとか

世界最先端の研究をするチャンスに恵まれたのは第一内科にいたからこそですが、実は大学院 4 年の時に大学紛争があって、それは、それまでの医療、医学に対する根本的な見直しを迫る運動だったのですね。私はその時、体制(医局)側の一員だったのですが、医局から言われて学部学生を説得に行ったら、学生の言っていることが極めてチャーミング、極めてロジカルでクリアでした。これは学生の方が正しいのではないかと、医局に帰って報告したら、すごく怒られました。(笑)

でも、第一内科には自由な思考をして学生の意見に耳を傾けられる先輩医師(文部教官)が少なからずおられて、結局、医局で大討論が始まりました。そして成り行きから私は学生とは別の若手医師の会の委員長に選ばれて教授会の敵になってしまったわけなんです。学生よりも憎いですよね。〝獅子身中の虫〟で内側から破壊するわけですから当然です。結果としては強烈な権力に敗れるのは当たり前で、辞める覚悟をしていました。ところが、文部教官の先輩医師は大学紛争終焉後、責任を取って辞職されたのですが、私はその先生を含め第一内科に守られる結果になったのです。同じ運動をした同級生は皆クビになったのに委員長の私が残るのは不名誉極まりないんですが、とりあえず超音波その他の研究をやり終えるまで、そして文部教官にはなれないという条件付きで研究は許されたんです。第一内科は第二次大戦前から先ほどの教授の言葉通り、「学問に必要なことは自由度である」事を実践する文化を持っていたのです。その結果、反逆児も内に置くということをやれたのでしょう。

異分野の研究から  新たなテーマへ

健康科学センターも兼務されて?

九大に健康科学センター(現キャンパスライフ・健康支援センター)ができて選ばれ、最終的にそこの教授になったというのは不思議な縁を感じます。それも第一内科の循環器病学をやりながら健康科学という私にとっては最も面白い新しいジャンルを研究できました。循環器病学というのは病人の科学、健康科学は正常な人の科学ですが、初めて病気と正常と両方、いわば〝人間の科学〟を研究する事ができるチャンスが与えられたのです。それができたら医学は変わるという事を当時から確信していました。

研究室も学位のための研究はやっていなかったし、私自身大学紛争の時は大学院生として学位無用運動をしていましたから、ずっと医学博士じゃなかったんです。だけど、健康科学センターが大学院にならなければいけない時に教授が医学博士でないと困るので、本当にやむを得ず学位を取りました。これは言行不一致で苦渋の選択でしたけれども、今はついに名刺にも医学博士とか九大名誉教授とかつけるようになりました。これは初めてお会いする方に胡散臭い変なおじさんと警戒をさせないためですが。(笑)

健康科学センターではどんな研究を?

いくつかあって、一つは心臓から脳を見る。実は脳があらゆる臓器支配をしているということに心臓病を通して気が付いて、それが「脳研究」という全然違う分野をやることにつながったんですね。そして、それがまた「血液レオロジー」という血液粘弾性学をやることにもつながり、それを農水省が認めてくれて、「レオロジー機能食品研究所」という研究所をつくってくれたんです。

結局、「ホリスティック(全人的)である事が重要で、専門的な科学だけをやっても人は救えませんよ」ということです。大学紛争の時、学生が突きつけた一つが「専門性の持っている嘘」という鋭い表現で、私もその時、専門医制度には猛反対したんですが、結局、専門医制度が起こり、今は予測通りのおかしい医療制度が出てきています。何れにしろ臓器として脳機能がわからないと全体が見えないんです。我々は臓器の相関性で生きているのに、もちろん脳だけで生きているわけじゃないんだけど、情報の集中組織である脳を理解していないと、それぞれの専門領域の臓器が理解できないわけです。だから専門医というのは必ず同時に脳機能を同じ程度にわかっていない限り専門医になれない、というのが私の考えです。つまり統合医療が必要になってきているのです。だから「統合医療(ホリスティック)とは何か」を見せなければならない。それがBOOCSという方法です。

脳疲労概念が世界を変える

脳疲労概念が生まれたきっかけは?

第一内科でたまたま太っている患者さんを何人も診て、心臓病で肥満は困りますからその専門医に送ったら、ことごとく失敗して帰ってこられた。それでやむを得ず肥満の勉強をしたら、診断学は面白いが治療法はあまり有効ではない(治療原理が間違っている)事に気付きました。そこで、肥満治療の新しい原理を見つける努力をしている経過の中で「脳疲労」という新しい普遍的な概念を生み出しました。つまり肥満の患者さんから教わったわけですね。

この「脳疲労」という言葉は私の造語です。体が疲れた状態が身体疲労であるように、脳が疲れた状態が脳疲労です。大脳は脳の中の司令塔ともいうべき存在で、言語、論理、芸術の理解などの知的中枢である新皮質と、喜怒哀楽、快・不快等の情動や本能の中枢である旧皮質(大脳辺縁系)に区分されます。その下に自律神経や食欲中枢がある間脳があります。これらが外部からの情報を処理して指令を出すことによって機能しているわけです。しかし、情報量(外からのストレス)が多すぎて情報処理システムが破綻する、すなわち大脳新皮質と大脳辺縁系、そして間脳との間の関係性が破綻してきます。この状態を脳疲労と定義しています。脳疲労になると五感異常や行動異常が起こり、ついには生活習慣病や癌、うつ病などに至るのです。

BOOCSはダイエット以外にも有効ですか?

脳疲労概念を提唱し、それを解消するBOOCS法を開発するきっかけになったのが肥満です。従来のダイエット法は食事制限などの禁止・抑圧が基盤になっていますよね。それではストレス過多が進むばかりなんです。つまり、従来の医学的治療法はイソップ物語の「北風と太陽」でいう北風型です。BOOCSは3 原則をご覧いただくとわかるとおり、太陽型と言えると思います。心地よさや快感覚を取り戻すことで肥満の大本となった脳疲労を解消する方法なんですね。BOOCS法をやった人、やらない人を15 年間追跡して比較した研究では、BOOCS法をやった人の方が延命効果が認められ、全死亡率や癌死亡率が半減したことが統計学的にも証明されました。これは非常に重要なデータです(JOEM 57 : 246-250,2015)。BOOCSとは、 Brain-Oriented Oneself-Care System (脳を、目指した、 自己、ケア、システム)の略です。フローチャートにあるように、さまざまな疾患の原因になっていると考えられる脳疲労を取り除くことで予防や治療ができるという新しい方法なんです。

これからの研究の中心は何ですか?

この脳疲労概念が医療観を変えるという表現は大変僭越ですが、これを理解し実行したら病気の予防と治療効果がずいぶん変わるだろうと、今は考えています。脳疲労を物質レベルで表現すれば、それは脳内のプラズマローゲン減少状態であると最近考えるようになってきましたが、今、それを使って認知症も治療しています。実はそのメカニズムの中にゲルマニウムがものすごく必要だと考えていますが、その証明には新たなサイエンスが必要です。今やっとそれが可能になってきたと思っています。

浅井先生は石炭の研究から始められましたが、私は石炭の町で生まれました。そういうご縁も感じます。浅井先生は超微小なゲルマニウムという原子が、実は非常に生命の根幹にかかわっているということに気が付いておられたので、ある意味で違った方向から同じことを言っているかもしれないと思うんですね。

脳疲労概念の普及とその解消法が確立されれば未来は明るくなりそうで、そこにアサイゲルマニウムも関わっていけるこれからが楽しみです。本日は有難うございました。

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