ゲルマニウムラジオとアサイゲルマニウム浅井フーズ通信

開眼!ゲルマニウムファイル

2020.12.16

ゲルマニウムといえば、浅井フーズクリエイションでは健康食品や化粧品としておなじみですが、ゲルマニウムと聞くとすぐにゲルマニウムラジオを連想する人も案外多いのではないでしょうか。今回はそのゲルマニウムラジオとアサイゲルマニウムの意外な関係についてのお話です。

ゲルマニウムラジオ

 戦後すぐに生まれた方の中には、まだ大きな真空管ラジオしかなかった頃、真空管の代わりに鉱石を使って小さな鉱石ラジオを手作りし、アンテナ代わりにブリキのといや屋根を探したりした経験があるかもしれません。耳を澄ますと切れ切れに聞こえるラジオ放送の懐かしい記憶…。その鉱石の代わりにゲルマニウムダイオードを使ったのがゲルマニウムラジオです。これはその後も工作キットとして使われているので幅広い年代の方がご存知でしょう。その後、実用品としても真空管ラジオに代わってゲルマニウムやシリコンを使ったトランジスタラジオが発明され、広く普及していきました。

日本の石炭からゲルマニウムを取り出す

 そんなゲルマニウムラジオがアサイゲルマニウムとどう関係があるのでしょう。

 1945年、浅井一彦氏が創設した(財)石炭総合研究所(以下、炭研)では、石炭組織学の研究をテーマとして日本全国の石炭層の組織成分測定を開始していました。

 さらに周期がうまく合うようにカードを並び替えていくと、同じ列に並ぶものは大変よく似た性質を持っていました。しかし、縦横隣同士の元素の性質が似通っているように並べようとすると、どうしても何ヶ所か空白にしなければなりません。彼はそこに未発見の元素があるのではないかと考え、それはいつしか確信に変わり、「未知の元素」のために席を空けておくことにしたのでした。

 1948年、アメリカのベル研究所でゲルマニウムを使ったトランジスタが発明されたことを知った炭研の及川研究員らは、浅井所長に日本の石炭からのゲルマニウム抽出研究を提案します。というのも、欧米の文献では石炭にゲルマニウムが多く含まれることが報告されていたこともあり、ゲルマニウムの産業用途への将来性を見出したからです。

 石炭組織学では日本の第一人者であった浅井博士はその提案に確信を持ち、1949年6月、ゲルマニウムの資源調査及び石炭からの抽出についての研究に着手することを決断したのです。そして1951年2月、石炭乾留ガス液中にゲルマニウムの存在を確認し、3月からは東京ガス㈱との共同研究によって実用化研究が始まりました。

ゲルマニウム製造に成功、トランジスタ開発へ…

 研究を始めて1年半後の1952年10月、ついに石炭ガス液より二酸化ゲルマニウム(GeO2)の回収に成功。翌年1月には、この二酸化ゲルマニウムから金属ゲルマニウム(多結晶ゲルマニウム)を製造することに成功しました。炭研が石炭からゲルマニウムを抽出したこの一連の話は、後年(1991年)NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』でも紹介されるほどの大きなプロジェクトだったのです。このゲルマニウムは通産省技術庁電気工業試験所に提供され、トランジスタラジオの試作品が作られ、日本の電子産業の発展に寄与しました。



 結局、1954年以降アメリカから低価格の金属ゲルマニウムが輸入されるようになったため、石炭からのゲルマニウム抽出研究は産業化へは結びつきませんでした。しかし、この研究が後のアサイゲルマニウム誕生へとつながったといっても過言ではありません。

半導体原料からアサイゲルマニウムへ

 半導体原料としての用途開発が行き詰っていた1955年頃、炭研では研究材料であるゲルマニウムが身近にあったこともあり、ゲルマニウム化合物の研究を開始していました。浅井博士はそれまでの研究から、石炭にゲルマニウムが多く含まれていることの意味を、石炭の素となる植物が生育生長していくために必要なものとして吸収していたのではないかと強く考えていました。更に当時ヨーロッパではゲルマニウムの医薬への応用研究が進みつつあることを知り、生理活性のあるゲルマニウム化合物についての研究が浅井博士率いる炭研の中心テーマとなっていったのです。

 彼らは、「二酸化ゲルマニウム果糖液を用いたX線による放射線障害に対する治療及び予防効果」についての動物実験では一定の成果を得ていました。しかし、二酸化ゲルマニウムによって実験中にマウスが死亡していくことから無機ゲルマニウムでの研究に限界を感じ、安全で生理活性のある有機ゲルマニウム化合物合成への遠い道のりを歩み始めたのでした。

 そして1966年、ついに安全で生理活性を持つ水溶性の有機ゲルマニウム、すなわち『アサイゲルマニウム』が創り出されたのです。半導体開発から一転、わずかな情報とわずかな実験結果、厳しい財政状況にもかかわらず、ゲルマニウムに対する先見性と強い思いから、有機ゲルマニウムの開発にこだわった浅井博士の無謀な挑戦は、井深氏に通じるものがあったかもしれません。

 半導体原料としてスタートしたゲルマニウム研究が、18年後にはアサイゲルマニウム創製につながり、そして㈱浅井ゲルマニウム研究所に引き継がれ、浅井博士の信念と願いの結晶であるアサイゲルマニウムの新たな可能性を探る挑戦が、今も続けられているのです。

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