2017年 秋・冬
1988 年 明治学院大学社会学部社会福祉学科卒業。 1998年 Case Western Reserve U.N.I.V.Doctor of Nursing program 修了。 2007 年 認知症フレンドシップクラブ設立。 東京白十字病院看護師長、北海道医療大学看護福祉 学部教授を経て、2011 年より現職。
認知症フレンドシップクラブ URL:http://dfc.or.jp/ RUN 伴 2017 公式 URL:http://runtomo.org/
「老年看護学」と言って、高齢者を対象にした看護、要は高齢者が〝老い〟を豊かに生きていくために、健康という側面から高齢者に看護がどう寄り添ってサポートしていけるのか、特に〝ケア〟という意味から考えていく学問かなと思っています。
いえ、全く看護は考えておらず、元々はパイロットになりたかったんです。でも、うまくいかず、2年浪人後に養護学校の先生をしている先輩の影響もあって、養護学校教諭の資格が取れる大学へ進んで社会福祉を学び始めました。
福祉を学んでいく中で、障害児教育だけが福祉ではないことが見えてきて、医療の中で働くソーシャルワーカーに興味を持って、大学3、4年では医療ソーシャルワークにテーマを置いたゼミに入りました。卒論のテーマを考えていた頃、エリザベスキューブラー・ロスという人の「死ぬ瞬間」という本を読んで、末期癌の告知を受けた人たちがどのような最後を迎えていくのか、人の死とは、ということに興味を持ちました。そして、大学4年の夏に卒業論文の調査を兼ねて、静岡県浜松にある聖隷三方原病院のホスピスに1ヵ月間のボランティア実習に行ったんです。ホスピスで末期癌の患者さんに関わるソーシャルワーカーの働きが見たかったので。ですがそこで看護師の働きに魅せられてしまったんですね。患者さんや家族が看護師さんたちに心の内を話したり、看護師さんたちも一緒に泣いたり笑ったりしている姿を見ていて、その距離感の近さが羨ましく感じたんです。もしかしたら自分がやりたかったのはこうした距離感での人との関わりだったんじゃないかって。実習後、ゼミの先生に「大学を卒業したら看護学校に行きます」って言ったら怒られてね。先生は、当時は少なかったワーカーの就職先を準備してくれていたので。そんなふうに看護にたどりついた感じです。その後、専門学校で看護の資格を取って、病院で働き始めました。
勤めた病院はいわゆる老人病院で、亡くなっていく方も多かったです。亡くなっていく方に対して最後の生活の質、QOLを高く維持していくことはケアが担う重要な働きなんです。ケアとして、看護師として、彼らが人生の最後を豊かに終えていくために、どんな支援ができるだろうか、そんなことに興味を持っていました。患者さんとの時間を大切にするのがケア、看護だと思っていても、実際の業務ではそうじゃないことに振り回されることも多かったし、患者さんと話をする時間を大切にしていると「仕事をしてない」って怒られたり。3年ほど勤めた時に、行き詰まり感を抱くことが多くなり、いろんな人に相談しました。その時、日本人だけどアメリカで長年医者をやっている人に「日本の医療はアメリカから 年遅れている」という話を聞いて、アメリカの医療を見てみたい、向こうで資格を取って働くのも面白いかもしれないと思って、留学して看護を学ぶことにしたんです。
5年で大学院の修士と博士を終えてきました。最初はアメリカでナースとして働こうかと思っていたんですけど、やっぱり僕には語学が壁でした。日常会話はできても、日本でお年寄りとコミュニケーションをとっていたようには英語を操れないんですね。アメリカでの暮らしに少々疲れてきていたこともあって、日本での就職も念頭に置きつつ、帰国して博士論文のデータ収集活動をしていた時に声をかけてくださったのが北海道医療大学。北海道は空間的な有り様がアメリカと近く、適応しやすそうだったのもあり、大学院修了後に医療大学に赴任するため帰国しました。
助手時代の研究は健康な高齢の方々の記憶に対する認識に関するものでした。「物忘れ予防教室」を開いて、物忘れに対する向き合い方や抑うつ感、自己効力感などがどう変化していくかなどの研究を。物忘れ対策などの介入を行うと、多くの高齢者はやる気を高めて元気になって帰っていくんです。ですがしばらくすると、高まった力がしぼんでいってしまう。高齢者一人ひとりをパワーアップしても、彼らが戻っていく地域や社会がそうした力を奪い取ったり、無力化してしまうような環境であっては意味がないわけです。高齢者を元気付けていくことと共に大切な、彼らが暮らす環境を整えるための町づくり、地域づくりを考えるようになり、そのきっかけになったのが認知症だったんです。
2004年に京都でアルツハイマー病の国際会議が開かれ、イギリスで若年認知症の人に関わっている看護師さんに出会いました。彼女たちがやっていた取り組みの話を聞き、面白いと思ったんですね。ある若年認知症の人がいて、活動的なことが好きだったのに、認知症になって家の中で過ごすことが多くなっていた。そのためにストレスが溜まって家の中で粗暴な行動をとることが多くなっていったんですね。そんな時に一人のワーカーさんがプールに誘い出したら、ことのほか外での活動を楽しんで、帰宅後も暴れなくなったんだそうです。そこで、自分がやりたいことができる環境を整えていくことが大切なんだと気付いて、それを支援するプログラムが立ち上がり、徐々に大きくなっていると。実際、例えばデイサービスなんかでも、全員がゲームを楽しんでいるとは限らない。やりたくないことをさせられるのは、誰だってつまらない。それはストレスなんですよね。でも、自分がやりたいことができれば、それだけで笑顔になっていく。そういう状況や環境が整えられていることは大切だと思ったんです。それで、大学内の研修制度を利用して1ヵ月ほどイギリスに見学に行きました。かなりしっかりしたプログラムで認知症の人たちをサポートしていて、日本でも同じような活動ができないか、地域を変えていくには何ができるか等、いろいろ考え始めました。でも、考えていても時間が経つばかりなので、とにかく動き出そう、旗だけでも立てようと立ち上げたのが、この認知症フレンドシップクラブなんです。
認知症フレンドシップクラブは、認知症になっても安心して暮らしていける町づくりを目指して活動する団体です。認知症のケアでは〝 できないことをサポートしてあげる支援 〟というアプローチが多いですが、フレンドシップクラブでは〝やりたいことができるようにサポートする〟ことを活動の中心に置いています。イギリスのプログラムに倣って研修会を開き、認知症の人をサポートする友達(サポ友)を養成して、例えば、旅行に行きたい人がいれば、同じ趣味のサポ友とマッチングするとか、地域の中に認知症バリアフリーな場所をフレンドシップクラブのスポットとして増やしていく活動も始めました。立ち上げた当初はその二本立てで始めたのですが、それぞれ地域の課題が違っていて、サポ友やスポットが全ての地域でうまく町づくりにはまらないこともある。だから、今はこだわらず、事務局によって各地域でフィットすることをやってます。活動はまちまちですけど、どの事務局も「自分たちの地元を認知症フレンドリーな地域にしていこう」という方向に向かって活動を続けています。
認知症の人もそうでない人も、みんなでタスキをつないで走ろうという、言ってみればタスキリレーのマラソンイベントです。例えば自分たちだったら、やりたいことって何だろう…と話していて、ジョギングを趣味にしていた私も仲間も、走ることで何かできないかと考えました。まずは自分が「ハーフマラソンで2時間を切って走ることに挑戦します!このチャレンジを一口 500 円の寄付で サポートしてください。成功したら皆さんからの寄付金は認知症の家族会に寄付します」と支援者を募って挑戦してみた。自分の好きなこと・やりたいことが、誰かの・何かの役に立つ、そんな流れを作りたかったんです。結果、ギリギリ2時間を切ってゴールして、集まったお金は家族会に寄付することができたんです。でも、これを続けたらタイムをどんどん短くしなきゃならない。(笑)だから自分1人じゃなくて、認知症の人も参加して皆でサロマ湖100kmマラソンに出られれば面白いかも、と思ったり。実際に聞いてみたら、「ムリ!」って断られてね。だったら自分たちでやるか?函館から札幌まで皆で走っちゃう?そんなノリで始まったんですよ。それがRUN伴の本当の第一歩でしたね。
初年度は函館から札幌の300kmをを約 100 名ほどの参加者でつないだんです。計画時点では10 km走れる人を 10 人集めて3日間拘束すればなんとかなるだろうって、かなりざっくりとした計画を立てていました。今考えたら絶対ムリですけどね。(笑)いざ、募集をかけたら人は集まらず、初年度はアワアワと、どうする?どうする?みたいな感じでしたよね。ですが、いろいろ工夫して、グループホーム入居者の方たちや家族会の方々も本当にニコニコしながら走ってくれた。参加者がみんなすごく楽しめたんですよね。今年で7年目を迎えますが、昨年初めて北海道から沖縄まで、延べ約1万人の方々にご参加いただいてタスキをつなぐことができました。
RUN伴はレクリエーション・イベントとしてやっているわけではないです。認知症の人も、そうでない人も、「RUN伴」という同じタスキをつないで走る経験を共有することで出会い、出会うだけじゃなくて、そこでお互いに何かに気付くんですよね。例えば、毎年、苫小牧で中学生のサッカーチームの子たちが参加してくれるんです。彼らは「認知症サポーター」っていう講座に参加した上で参加してくれるんですけど、そんな彼らでも参加前は「認知症の人って、ちょっと怖い」と言う。でもRUN伴に参加することで認知症の人と出会って、「なんだ、認知症でも普通のじーちゃん、ばーちゃんなんだ」って気付くんですよね。「それなら、街で困っていたら声をかけてあげられます」って言う。本当にそれは小っちゃい変化なのかもしれないけども、そういう自己変容を起こしていくような一つの仕掛けとしてRUN伴を機能させたいと考えているんです。
ただの走るイベントだと思って参加した人も〝認知症〟や認知症の人に出会う。皆、元気な顔して走ってるから、「え?あの人、認知症なの !? 」なんてことも。実際、ニコニコしながら走っていると誰が認知症なのかわからないんです。だから、関わることで初めて「普通じゃん」って気付く人がたくさんいますよ。RUN伴をきっかけに募金活動をしてくれたりね。我々が何かすると、みんなが勝手に何かに気付いて、勝手に何かを始めてる。面白いことが起こっているなって感じがしますよ。
認知症は今まではネガティブな暗いイメージで語られてきた部分も多いけれど、彼らなりの生き方があって、普通に生きてる、笑顔で暮らしてる姿がどんどん表に出てきている。そういうアピールをする部分で一役買っている感じもします。今年ももうスタートして沖縄ゴールに向けて走っています。今年は台湾にも行きますよ。
まず、自尊心を傷つけないようにすることだと思います。認知症の人と関わる時、特に家族間だとよくある。かつての姿をよく知っているが故にできなくなってきていることを受け入れられなくて、「なんでそんなこともできないの?」とかね。だけども、やっぱりできなくなっていってしまうんです。それを理解して、自尊心を傷つけないような関わり方をしていくことがとても大切だと思いますね。その人のペースで物事を一緒にやっていくことも大切になってきます。どうしても待てなくて「早く!」って怒っちゃう。できなくなってくればスローになるのは仕方ないんです。じっくりと一緒に待って、ゆっくりと関わってあげることが重要かなと思いますね。
もう一つ、我々はどうしても自分の立場で相手のことを説得しようとするんですね。でも彼らは納得できないと動けない。彼らが「あ、そうか」と腑に落ちるようなストーリーを準備してあげないとそこから進めない。マイナスな関わり方も、考えようによってはプラスに転じていくことができるんです。急かすんじゃなくて、ちょっと待ってあげるだけでもプラスの関わりになる。「ダメ」って否定するんじゃなくて、「じゃあ、やってみたら?」って受け入れて見守ってあげるだけでもいい。説得するんじゃなくて、「そっかー、じゃあどうしようか」って別な道筋を準備してあげるだけでもいい。そういう関わり方を模索していくことが重要かもしれないですね。
認知症を本当の意味で理解してない人が多いんだろうと思いますね。そういう地域の中だと自分が認知症になった時も隠れて不安な中で生きていかなきゃいけない。皆で話し合って、安心して暮らせる地域を作っていこうよっていうアプローチが大切になっていくと思います。町づくりのプレーヤーは認知症の人たちだけでなく、子育て中のお母さん、お年寄り、子供たち…。そういう人たちが抱えている問題は全然違う。認知症に関しても違う立場で理解しつつ、お互いに何ができるのか、それぞれが歩み寄っていくことだと思うんですよね。
職場が千葉で、自宅が北海道にあるので行き来はしていますが、それほど忙しさは感じません。健康法は…いろいろなサプリメントを試してみたり、週末にジョギングをしたり。時間がある時は、お昼ぐらいに走ります。気持ちいいですよ。「みんな仕事してるのかなー」なんて思いながらね。(笑)