特定非営利活動法人 カラ=西アフリカ農村自立協力会 代表 村上 一枝さん浅井フーズ通信

人物探検隊

2014年 春

1940年北海道生まれ。日本歯科大学東京校卒業。歯科医師。歯科医院開業後、医院廃業。1989年9月西アフリカ マリ共和国へ渡り、ボランティア活動。以後、マリ在住。1992年9月支援団体「マリ共和国保健医療を支援する会」設立。1993年9月「カラ=西アフリカ農村自立協力会」に改名。1993年11月マリ共和国から認証。2001年読売新聞社「医療功労賞」受賞。2002年3月東京都からNPOとして認証。2013年2月毎日新聞社「毎日地球未来賞」受賞。講演依頼、活動内容はCARAホームページhttp://ongcara.org/参照

歯科医院を辞めてマリへ

きっかけはサハラ砂漠への旅行だったそうですが、初めて目にされたマリはどうでしたか。

私はサハラ砂漠だけでなく、日本と文化の違う地域に非常に魅かれ、イスラム圏をずいぶん見て歩いていたんです。旅行するために開業しているって笑われるぐらい。

初めて見たマリは黒いでしょ、広いでしょ、汚いでしょ。自然環境の違いは人々の生活を左右しますからね。衛生状況によって病気を引き起こすことも多いでしょう。電気も水も学校も病院も無い。あるのは砂・砂・砂、そして熱くて過酷な生活ですよ。「こういうところにも人が住んでいるんだな」と思ってね。沢山の物と情報に囲まれていながらも、あれこれと不満を言って生きている日本での生活を反省し、思考していた1年でしたね。

昔からボランティア活動等にご興味が?

父も医者で開業しながら民生委員をしていましたし、それを見て育ちましたから、私も何かできないか、という疑問があったんだと思います。自分で支援するためには開業と二本立てではできないから、みんなが驚くような値段で患者さんも診療所もつけて若い先生に全部譲って。私にとっては値段じゃない。元気な時にやりたいことをやるのが生きがいだと思ったわけ。即決なんですよ。だからインスピレーションって大事にしてます。1989年の8月31日でエイッとばかりに辞めて、後始末をして9月末にマリへ行ったんです。

なぜ活動の場をマリに?

たまたまマリに縁があったということだと思います。観光でマリに行ったんです。伝統的な習慣が有名な世界遺産のドゴン台地の村には観光客が多いんです。ここの村に外国の支援の診療所があり、ユニセフの車がエッコラエッコラ上がって来て予防接種をしている。「あぁ、ユニセフができるなら、私にもできないことはないな、こういうところで人の力も活かせるんだな」と。それと現地ガイドが言った、「病気になったらお金がないから死ぬだけだ、しょうがない」っていう意識。そういうのを見たり聞いたりして次第にその気になったんですね。

ゼロからのスタート

活動の原点となったのは何ですか。

即決とはいえ、足がかりがなければ無防備に行く事はできないから、まず、マリで活動している団体を探して、ボランティアで申し込んだんです。でも実際に行ってみたら、サハラ砂漠のトゥアレグ族の人たちが、医者が来たということでいろんな病気を抱えて相談に来るけれど、治せるものと治せないものがある。やはりそこで無力さを感じましたね。日本人がいるだけで、朝から晩まで薬をタダで貰いに来るんですよ。でも私たちが引き上げた後はどうなりますか。いまだにエイズ以上にマラリアで亡くなる人が多いんです。マラリアの症状は頭痛、発熱だけじゃないし、多くの人は慢性に移行して最終的に肝臓や腎臓や肺に害を及ぼして亡くなってしまう。一時的な投薬だけで済ましてしまうんですね。基本的にマラリアにならないような環境を整える知識が無いんですよ。対症療法だけでは根本的な解決にならないから、今のような支援分野に広がったんです。サハラ砂漠での経験が原点なんですよね。

ボランティアを辞めて、首都のバマコに戻ってマリ人のプロジェクトを探したんです。ある組織の人にマリへ来た目的を話し、専門分野を説明したら、「うちのプロジェクトであなたのような人を探している」というので、すぐプロジェクトのあるマディナ村に一人でバスで行ったんです。村に住んで始まったのが最初に単独でやったプロジェクトでした。自慢にならないかもしれないけど、本当にゼロから始めたんですよ。

まずはどのような活動からスタートを?

幸い、マディナ村ではOXFAM(オックスファム)のプロジェクトが始まったばかりで、農業用ダムや牧畜、識字教師育成などの事業が始まり、私も部族語のバンバラ語研修を受けさせられてね。でも医療部門はなかったのですが、村の家庭1軒、1軒調査したんです。人口700何人、家族数約40所帯だったかな。事務局長が英語が話せて優秀な人だったから、彼を相棒にしてね。家族の名前、年齢、病気を聞いたり、台所、トイレを見せてもらって国勢調査みたいに調べたの。調べてもらえる=自分たちの悩みを訴えられる、ということで家長が仕事にも行かず一張羅を着て待っているわけです。自分の年齢もわからない、字も書けない、母子手帳はあっても読めない、でもとにかく政府からもらったものだからビニール袋に入れて大事にしまってあるのを見せてもらったり。この人は出稼ぎに行ってるの? いつ帰ってくるの? 奥さんは何人いるの? 何回流産したの? 何人産んだの?って、全部統計をとったの。今考えるとよくやったと思いますね。若かったからできたのね。

他の地域に活動を移しても、この方法でそこの数ヵ村を調査します。全ての記録はあります。調査後には結果を集計して、村の長老に集まってもらって、あなたたちの村はこういう状況なんだと説明するんです。彼らにとっても病気で農作業が出来ないとか、死ぬのは非常に不幸なことと思っていても、病気予防やその知識・工夫が足りないのね。援助物資としてヨーロッパから、既に彼らが使用した残りの薬が村へ来るんです。消費国の人たちはこのような支援でも「助けてあげてるのよ」という意識もあるってことですね。村では「使った残りだ」と批判的ですよ。買えない人にとって無駄ではないけど、支援も失礼に当たるようなことはいけませんね。どんな国の人でも上から目線はいけません!!

その国の人、物を活かして

女性への教育や生活改善なども彼らの自立に影響が大きいのでしょうか。

村の人は着るものもあまり無いから、女性一人一人に手縫いの衣服作りを教えたわけ。場所が無かったから道路でゴザ敷いてね。古い布を持ってこさせて子供用の前合わせの肌着を教えたら、柔道着だ、カッコイイって。そんなことからだんだん女性と親しくなり、信頼を得ていったんです。女性を巻き込む、特に主婦を味方に付けることは本当に大事ですよね。アフリカでの国際井戸端会議ですよ。

現在の団体になってから採用したマリの女性スタッフが非常に優秀で、私の言うことやアイディア全てが目新しく、強い興味があるらしく、あれもこれも覚えたいって言うの。女性適正技術部門(染め物、縫い物、石鹸造り、刺繍等)を彼女が担当するようになって目覚しく発展し、女性が収入を得るようになったんです。お店がないからみんなが買いに来るんです。売れると嬉しいからセッセと作る。そのお金を貸付資金の原資に蓄えたんです。これは絶対に他では見られないですよ。10年以上継続しています。女性が村で収入を得るようになり、出稼ぎが減少したんです。夫にも小遣いをあげ、家庭内暴力が減り、女性は経済力が付いて立場が良くなり、自信から自立に繋がって行くんです。

いろいろな支援・活動がありますね。

最初は医療だけと思ってこの事業に首を突っ込んだけど、医療を進めるに当たっては教育や食べ物、栄養とか色々な知識がいるわけですよ。野菜園も基本的なインフラを我々が整備しますが、次からはそこで得た収入で運営させるんです。種を買い、井戸の故障を女性たちの力で修理する。通常は主食のトウジンヒエの製粉に臼と杵を使っていて、これは7~8才の少女期から手伝うので過剰労働になり、流産や死産の原因になる。妊娠しても定期検査に行ける状況じゃないし、女性の死亡率が一番高いのが出産時というほど非常に事故も多かったんです。そこで過重労働を軽減するために穀物製粉機を女性たちの資金も出させて設置しています。

それから環境保護の問題も重要ですね。日常の燃料に多くの木を伐採します。人口が増えるほど伐採量も増えるでしょう。必要だからしょうがないけど、その後植林をしないのが問題ですね。人々の植林の意識を高めたくて学校林を造成し、学童が植林して学校運営に非常に役立っています。苗木の側に野菜の栽培も行いました。造成地内に備えた井戸の水を無駄なく使うためです。家畜が入らないように柵も作る。そうすると水のない村が井戸が欲しいので木を植えるってことになるわけ。木が重要だから植えなさいと言っても、直ぐに収入に結びつかない植林はプロジェクトとしての発展が非常に遅く、難しいです。でも、成果を確認した他の地域が真似るようになる、所謂裨益(ひえき)効果が出るんです。そして新しいプロジェクトが発展していくと、あまり熱心でなかった村の人たちは「あぁこうだったのか」って気が付いたりね。成果が彼らの心を揺さぶって目覚めるのでしょう。

スタッフはどんな方たちですか。

私たちの活動内容では、マリの技術者に有効に働いて貰うことがベストと思います。アフリカ人への指導はアフリカ人が最適です。現地の材料を使い、現地の技術を活かすことが活性化への早道だと思うんです。日常生活に必要なことから収入を得て生きる道を開くことが大切なんです。学歴では選びません。誠実さが第一で小学校を出ていれば良いです。うちは徹底してそのようにしています。言葉や習慣、意識の違いが有り、日本人スタッフは非常に難しいですね。

一番難しいのは医療

教育や医療は難しいとよくおっしゃっていますが、どのような支援が必要ですか?

学校で知識を得るとみんな村を出て行ってしまうから教育はいらない、学校もいらないと言っていた村が、識字学習に非常に熱心になっているんです。すごい意識の目覚めですよ。字を習って名前を書けると嬉しいんですね。それに比べてもやっぱり医療面の普及は難しい。公衆衛生や病気予防を勉強しても直ぐに収入に結びつかないですから。助産師や看護師にでもならなければお金にならないわけ。でも子供の下痢やマラリアも多くて親も心配ですし、苦しみたくないし、ということで母親が勉強を始めたんです。やはり、知りたい、覚えたい、人と違うことをしたいという意識はすごくあるわけ。このプロジェクトは村から5人の女性を選び、衛生問題や出産、栄養のことを学んでもらうということにしたんです。親の手で子供の病気を防ごうというわけです。学んだ5人の彼女たち(通称k会)が村に戻って保健普及員として人々に知識を伝達する、という仕組みです。それが2008年から3年間のプロジェクトで大きな成果が出てきたのです。

特に私が感激しているのは、2000年に今の活動地域に入った時には、政府が開設した産院1ヵ所だけだったのが、「村の女性が字を書けるようになったら産院を建ててあげます」って言ったら、現在はなんともう7人の助産師が誕生して、7ヵ村に産院が開設したんです!!すごいでしょ? 単なる産院だけども他のことも勉強させているから、マラリアになった時にもそこで薬を買えるんです、家族計画の相談も出来て子供の予防接種も確実に出来ています。それが私の自慢なんです。これは女性の将来にも光を当て、女児の就学率が高まっています。

産院が医療活動の中心になっているわけですね。

貧しい暮らしで、知識のなかった人たちに最初から「管理しなさい」と産院を建設しても無理なことなのです。村の開発事業にはステップがあるということですね。年月を経てやっと保健事業に、それも彼ら自身で管理できる保健事業の実施に達したということです。家族計画に見向きもしなかった男の人も、現在は奥さんと揃って相談に来るようになりましたね。過去には全くゼロだったのが、すごいことです。そして下痢の子供が減ったのは研修を真面目に受けて理解した結果です。食べる前に手を洗うとか、食べ物に蓋をするとか、日本では何でもないことだけど、そういうことも教えていったからです。

毎年出稼ぎの若者が帰ってきた時にエイズ予防のプロジェクトをしますが、その時にうちのスタッフだけでなく、若いアシスタントスタッフや育成した助産師や看護師に説明させるわけ。そうすると「彼らはスペシャリストだな」って村の人たちが理解し相談に行くようになるんです。一人から家族へ、そして村へと我々は忍耐強く意識を変えていく努力をしないと成果は出ませんね。これは意識の問題でもあるから、支援する側のがまんですね。

支え、支えられ、確実な成果へ

活動資金はどういうものですか。私たちにもできる活動はありますか。

我々は一般市民団体ですから、本来は市民からの寄付や会費で事業をするのがベストと思いますけれど、それはなかなか望めないので民間団体、外務省やJICAの資金をいただいています。でもそれは税金ですから、間接的に皆さんから頂いていることになるんです。成果を出さなければ日本から預かった資金に申し訳が無いと思いますね。 日本での仕事は講演などの普及活動です。でも地味で緊急事業じゃないからなかなか取り上げてくれないんです。どこへでも出かけて事業の話だけでなく、アフリカの女性の話や裏話もね、いくらでも喋りますからお声を掛けていただきたいです。

組織を運営していくのに大切なこと、支援活動をしようとしている方たちへアドバイスなどはありますか?

大切なのは信念を貫抜くことですよね。そして誠実に進めると信頼を得るようになります。欲を出さないことも大事ですね。絶対に揺るがない精神力で進むっていうことだと思うんです。現地の人の身になって考えることです。いろんな経験をしなければ、理解できないことが多く、私は48才で始めたんですが、決して遅かったとは感じませんね。若ければいいってことじゃないんです。若い時から支援事業に馴染み、勉強するのはいいですね。私の場合は、今考えるとそれまでの時間は生活の基盤、資金的な基盤をつくる時期だったなと思う。今もいろんな不満・不安はありますけど、だからといって辞める気はないし、結局今まで学んだこと、知ったことをフィードバックして、ゼロで生まれたからゼロで死ぬのが人生だと思うんですよね。

後継者を育てないのが欠点だとよく言われるけど、私はこれは会社組織の事業ではないから永代続けていく必要はないと思うの。誰でも自分の意思で作り上げた方が納得してできるんですよ。だからいろんな団体がたくさんできればいいと思う。5年計画でも10年計画でもプランを立て、現地の村に許可を得てやりなさい、って言うんです。

マリへの支援や啓蒙・啓発活動にご多忙な村上さんご自身を支えているものは何ですか。

支えられている、学んでいる、という感じですね。反省を繰り返し、工夫して、これでもか!!と挫けないで続けていくことでしょうね。私、しつこい人間ですからね。

多種類の項目の事業を同時進行で進めていますと、一隅を照らす光でしかないけど、想像していなかった成果が出てくるんですね。マリから来る毎月の報告書を訳していると面白いんですよ。苦労というか、心配事やイライラしたり怒ったりもするけど、人々の変わりようが嬉しく楽しいです。でも未だ道半ばです。

一人でも多くの人にこのCARAのことを知っていただき、それが村上さんの支援活動のバックアップに繋がることを願っています。本日は有難うございました。

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